『靖国』 ・ 責任を活かす愛国心

『靖国』/ 2008年・日本・中国 / 李 櫻 監督 / 123分 / ドキュメンタリー

第二次世界大戦を思い返すとき
2045年に第二次世界大戦の終戦は100周年を迎える。つぎの大戦がその時まで人類を滅亡させていないかぎり、世界の国々はきっと記念の祭典を行うだろう。戦争を題にした映画と小説は波のように我々の意識に突入するに違いない。日本には三流の俳優たちを使ったドラマが公開され、戦争ミュージカル、戦争せんべい、戦争をめぐる政治家の長すぎる演説から逃れないおじいちゃんになった私は、見知らぬ青年に石を投げられて「貴様らが温暖化さえ止めてたらよかったのに・・・!」と追い払われる。
そのとき、日本人は第二次世界大戦をどういう風に解釈するだろうか。戦争体験者はほとんど死滅したはずだ。残りの日本人には戦争の罪が無く、南京大虐殺も人体実験も沖縄悲劇も歴史の一章と始末され、東京大空襲と原爆の地獄も遠すぎる過去の伝説として思われるだろう。歴史は偽りと繰りかえしの対象である。認めなさい——あなたは日露戦争にたいしてどんな悔い、どんな誇りを感じているか?

もちろん、規模と結果を考えると日露戦争は20世紀の運命を決めつけた破局と転換点となった世界大戦の比べものではない。大日本帝国はバビロンのように人間と資源を飲みこみ、そしてカルタゴのように沈没したあとに東アジアで民主主義と平和主義の旗をあげた初の国家として生まれ変わって21世紀まで至った。けっして正義にかがやく民主主義国とは言えないが、60年の間に隣国との和平を保ちつづけてきたことは小さくない一方、日本人はそれまでなかった自由と富を味わってきた。この国の体制がいくら不正義であっても、終戦までの日本とくらべると楽園に見える。(もしかすると2045年の日本人も懐かしながらそう思うかも知れない)

アイデンティティー喪失のトラウマ
国は変化する。2045年の日本は2008年の日本とはともかく全く別の国になはずだ。明日の私たちは今日とは違う感覚を持ち、国民的アイデンティティーを別のことに属するだろう。だが、過去をあこがれる人はどの時代にもいる。李纓監督のドキュメンタリー映画『靖国』に紹介されるや靖国神社をまつわる人物は1945年に沈没した日本を幻のように呼び覚まそうとする。タイムトラヴェラーを思いださせる彼らは必死に日本魂を唱えて軍事力と天皇崇拝で正当化された国民的自我像を復活させようとしている。彼らの発言と態度に猛烈に怒り出すべきかもしれないが、映画を観て私がもっとも感じたのは参拝者にたいしての哀れみだった。靖国神社はひょっとすると古めかしい帝国主義よりも偉大なる痛みをあらわす。それは戦死した仲間たちにたいしてではなく、イデオロギーに洗脳された戦争世代が経験したアイデンティティーの損失に由来するトラウマではないかと思う。サンタクロースの不在を知ってクリスマスの意味を救おうとする子供のようなことだろうか?思い切って言うと、観兵式も、「天皇陛下万歳」のどよめきも、「名誉」と「祖国」の絶え間ない吹き込みも、それは、一部に幕末にはじり、1945年の敗北で頂点を達した劣等コンプレックスへのマスタベーションに過ぎない。

靖国神社が今まで人のはげしい感情を起こす理由の一つ、この問題でいちばん基本となる質問は「クリスマス日本とは、日本人とは何なのか」ではないかと思う。すくなくとも、異人である私にはそういう風に見える。

チープな愛国心
現在の数多くの社会問題とグローバル化による国際的文脈の変化が生みだす危機のなか、日本は世界の舞台で自分の役柄に迷っている。まさに西洋化を意味するグローバル化は民族と伝統をつぶしつつある力と伸びて、伝統文化の損失を阻止することは21世紀の大問題である。国民が危機に覆われて方向性を失うと過激思想が強まる。ポーランド、ロシア、ブッシュ政権下のアメリカも含んでいくつかの国がふたたび愛国心と修正主義へ逃げはじめた。『男たちの大和』や『俺は、君のためにこそ死ににいく』という最近の駄作映画もその傾向にそって作られた。

だが、世の問題を解決しようとする、疑わしい価値への回顧による美しい国の回復といった貧血な標語や、「一文化、一文明、一民族の国」というゲベルスじみた発言などはある政治家の現実当方を示すだけ。そういう政治家は教育、外交、内政のスイッチレバーを動かすから君が代問題などといった問題には真剣な事実がある。昔なりの純粋な世界観にあこがれて後つぐ世代にも<懐かしい日本>という虚像をとおして修正主義を感染することは危なくて卑怯だ。思想の自由を禁止し、ナーツィ・ドイツと同盟を結び、世界支配の誇大妄想にとりこにされたあの日本を<古きよき時代>に塗り替える試みは嘘とチープな愛国心にすぎない。真の愛国心は盲目の忠誠にではなく、嘘と過ちを指摘して歴史的責任を取ることにある。
靖国神社とその博物館”遊就館”が体現するのは、自己中心的で無反省の態度である。そこへ戦死者に尊重の念を捧げに訪れる政治家はその精神を——自らの意志であるかないかにかかわらず——支える。思い違ってはならない——太平洋戦争の3千万人の死者はいつか伝説に化け、意識から歴史の本に始末される。人間はおなじ罪を何度もくりかえす。しかしだからこそ我々は今記憶と警告に努力をそそがねばならない。

記念碑の必要性
太平洋戦争のすべての犠牲者、死者と精神的肉体的害を受けた数のないアジア、オーストラリアと欧米の人たちのための記念碑を、和解と警告ののろしとして作るときがきたのではないか。宗教と国籍と関係なく、だれでも安心していけるような建築物が必要だ。和解には象徴が必要だ。それはけっして表面的なことではない。例としてドイツの首都ベルリーンにある<ホロコースト警告記念碑>を言及したい。
17年間の討論を経て、ベルリーンにユダヤ系建築家ピーター・アイゼンマンの指導によって1万9千平方メートルの大きさを占める、ヨーロッパで殺害されたユダヤ人のための記念碑が設けられた。46億円の費用はドイツ政府が負担した。ホロコーストでナーツィ政権の手で虐殺された約600万人のユダヤ人の名簿を持つ展覧会を含むこの大建築物はドイツ国会堂のすぐ近くにある。この場の意味について長い議論もあったが、オフィスビルや他国大使館や住宅に隣接する、つまり首都の中心にある石碑はとくべつな象徴性をもつ。この三年のあいだ、ホロコースト記念碑とその展示スペ−スを訪れた人数は数百万人に及んできた。

日本、中国、韓国もそれに似たようなそれぞれの<national monument>、大戦のすべての犠牲者のための記念の地を設け、ある種の<記憶の軸>をとおして<一緒の悲劇>を偲べることを私は望んでいる。各国の人々と政治家が共に嘆き、祈れる場所。強制の思い出がまだ消えていないフィリピンやインドネシアにもこうした交流にも用いられる場が作られたら、靖国神社と違って平和と再生のシンボルになるのではないだろうか。日本は独裁の暗黒から復活し、平和主義の憲法をもって世界に<二度と繰りかえされないように>と呼びかけた。それは今こそ力強い知らせと、日本人にとって属するべき21世紀に向かってのアイデンティティーを意味する。

本文は、映画サークル「動くな、シネフール、甦れ」の同人誌『Cinefool』2008年夏号に記したものです。


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