疑問に思えば、疑問に賛成 — ジーザスライフハウスの光と霧

ライフハウス教会についての最新記事『イジメ、ウソ、マインドコントロール——ライフハウスの裏側』(2014年)を別ページで読んで下さい!他の経験者が英語で驚きのコメントを書いてくれました。そのダイジェストを日本語で紹介します!下記の記事は2011年のものです。

鳴り響くギター、 激しく音をたてるビート、きらめくステージの前に踊る若者たち。私は少し端っこの暗闇に立ち、腕をあげて知らない歌を歌ってみる。いや、これはロックコンサートではなく、東京のど真ん中にあるキリスト教の教会である。私の周りに何百もの日本人と外国人の歌声からのポップ風なハレルヤが聞こえる。その教会、いや、「チャーチ」の名前はジーザスライフハウスと言い、そこは自分が信仰心を築いた少年時代のユース・イベントの頃へとタイムスリップしたかのように感じる場所だった・・・。ここで私は自分のルーツに戻ったのでは・・・?オーストラリア人のロッド・プラマー氏に開始されてジーザスライフハウスは、わずか数年間で何千人もの人をコンサート礼拝に集客しただけでなく、大阪、横浜、香港にも創立された姉妹教会でも、若いアジア人たちをヒルソング運動の音楽と神学へと踊らせることに成功した。

それは昨年の7月だった。私は大学時代に福音派の運動からだいぶ遠ざかり、四年間もこれといった教会に通わなかった。東京に引っ越した時点でキリスト教の交わりに飢えていた。これをきっかけにしてもう一度それに挑んでみたかった。何かに属して自分の時間、エネルギー、能力を神さまの奉仕に注ぎたかった。新生活にはずみをつけて。 国際的な雰囲気を持ち若い才能に燃えているジーザスライフハウスがその全てを提供できるように見えた。 喜びが溢れるほど歓迎されてすぐにも私のポテンシャルを活用させるように誘われた。自分のなかに突然炎が燃え立つような気がしてワクワクした——幸福感・・・激変が起こるときに参加して感じる衝動・・・何かをやって、何かを成し遂げたい気持ち・・・週に2回も教会を訪れることは期待できる、熱狂を呼び覚ますことになった。これはビジョンを持った教会であり、自分がやっと適切な場所に辿り着いたことを日本に来てから初めて確信した・・

それから一ヶ月後、私の熱意が苦い失望感へと一転していた。自分自身がもはや歓迎されない人物になるところだった。 過激的福音派の大義を、多数あるキリスト教義のなかのある変種として黙認せずに、むしろそれに逆らうことを決心して僕はジーザスライフハウスを去った。
いったい何が起こっただろうか?

JLH-C

JLHに通っている間、私はとにかくまず彼らと関わろうとした。小グループ(「ライフグループ」)に参加し、ステージのばらしを手伝い、あちこちで新しい知り合いを作った。ほとんどのメンバーたちが単行本を持ち運ぶ代わりに聖書をiPhoneに保存してあることも、率直に都会風の消費文化にふけていたことも大目に見た。ライフグループの祈祷会が好んでマクドナルドで行われる、そういう感じだった。タイラー、グラント、サマーという人物にかこまれて自分がアメリカのホームコメディにでも置かれたかのような気がした。なるほどこれが東京の若いクリスチャンたちの自己理解なのか。我々は青年伝道に専念している、それ以外のことは他の教会に任す、と言われた。牧師の「メッセージ」を吸収する何百人もの青年たち、日本の心理社会的悲惨現象を逃れたばかりの熱狂的な何百人もの若者たち、その姿を見て説明に納得した。若者がこの社会に求めているものすべてをJLHが提供していた――明確さ。アイデンティティー。コミュニティー。才能を開花させるチャンス。どうやって生きるかを教えてくれて導く誰か。
牧師のロッド・プラマー氏と木村竜太氏は集会に福音派の一連の教義を接種した――聖書の絶対的真理主張、悪魔の攻撃をはらう呪文、婚前交渉の禁止などなど。臆病を捨てて熱意あふれるクリスチャン生活を目指せ!と情熱的かつ明白にメッセージを語った。

私は扇動するような説教よりも、そこにいた人々に興味を持った。 ビックマックを食べながら小グループの仕組みに導入された。それはとてもシンプルだった。自分で聖書を読み、思いついた連想を手記に書き込む。ライフグループで自分が考えたことについて話し合う。ライフグループ・リーダーがそれにたいしてコメントやアドバイスを与える。
私はここにも加わった。しばらくの間は物事がうまく進んだ。ロッド氏の説教がしばしば宗教的なモチベーション・トレーニングのように感じたこと、そしてギネス記録を破るようなスピードで聖句を呟き出す竜太氏の実用的な生活アドバイスに、聖書の悟りが別に必要ではなかったこともとりあえず我慢した。彼らの教えを50%ぐらいしか納得しなくても、自分のなかの装置が健康的に刺激されて動いていた。

しかしながら、聖書の絶対的真理主張、悪魔の攻撃をはらう呪文、婚前交渉の禁止などなどが私自身の信仰にそこまで重大とは思わないことが徐々に明らかになった。少なくとも私を積極的に教会に統合させようと努力していたライフグループ・リーダーが思うほどにそういった問題が私にとって明白ではなかった。私が傾くキリスト教の瞑想的、神秘的なかたちがこの環境ではかなり奇妙に映っていた。しかし聖書の神の権威を少しでも疑うことは微塵もなかった。聖書は私にとってすばらしく主要な聖典であったが、21世紀のキリスト教徒として、時代錯誤をあらわす、丁重に却下すべき観念を含んだものだった。男性中心社会に決めつけた女性像。同性愛者嫌悪。潜在的な反ユダヤ主義。また歴史的な信憑性は言うまでもなく低い。だがそのライフグループ・リーダーにとってそれが議論の余地のない問題だった。彼曰く「聖書が絶対的に神の言葉であり100%の真実であること、そしてそれが自分たちの人生で完全なる権限を持たなければならないことを私たちはライフグループ全体で信じる」。
私たちは神学論争に入り込んでしまい、彼が聖書を決定的な論教にしてあらゆる合理性をつぶした。私の多くの質問が単に無視されたこともあった。「この本は人生のマニュアルだ」 — それでもなぜ聖書を信じなきゃいけないの? — 「神の言葉そのものだから!」 — それを言うのがだれだ? — 「聖書だよ!」。そう述べる彼が逆に私の論証に循環論法があると訴え、私が神の掟を好きかってに曲げているのを強調した。つまり、私が自分自身を神さまにしようとしていると。私の教義が「毒」とされ、「自己欺瞞」をあきらめない限りライフグループを続けることができないと言われた。

JLHはまさか、反対者を組織的に排除するクラブだったのか?通い始めた頃の暖かい歓迎がまだあざやかに残っていた私にとってそれは信じ難いことだった。

それでライフグループを替えることを想定して別のリーダーたちにアプローチしたけれども、彼ら全員同意見であることを知る結果に至るだけだった。私は呆然とした。ライフグループはJLH世界への統合水門だった。あとの人はただ「許容された」ゲストとして扱われた。このまま私がグループに入らずに長くうろついていれば、いずれ欲望に駆られた異端者についての噂が出回り、私の意見がなきものとされることを恐れた。ここにいるためには、この5年間で神さまに困難の多い道を通して開かれたスピリチュアリティーを否認せざるを得なさそうだった 。
まさかこれこそが神さまの意志なのだろうか?来客数だけで彼らの正しさが充分明らかではなかっただろうか?一人ひとりのメンバーが本当に成功の模範となる輝かしい存在ではなかったのか?すばらしい家庭、すばらしい仕事、そして自宅にXboxがある。人生の不足なところを皮肉に反省することを恐れない実用主義者の私は、それに比べてシニカルな不平家に見えた。この懐疑の多い信仰が本物だったとすれば、なぜ私の熱烈な生き方を通してジーザスに救われた何百人もの友達が僕のフェイスブック・フレンズの過半数以上を占めていなかったのか?彼らの衝撃的な自信と比較して、私の日本的なアンビバレンスは深い不安定の証に現れただろう。

信仰というものがゼロ・サム・ゲームでなければならない理由を私は理解しなかった。討論が確かに堂々巡りをしたのは、私が自分の意見をより整理した形で述べれなかったせいでもあるだろう。他の教会にもあるように意見交換のダイナミズムが生き生きしている場を私は求めていた。だが、ライフグループは自由な考えを培うのではなく、教会指導によって定まった方向に操縦するためにあった。議論というものは決して望まれなかった。
私はそれから徐々に他のことにも気がついた。説教を聞いて、絶対的真理を所有すると信じこむ者の自己満足の兆候が感じとられた。「我々は堕落した世界に立ち向かう。我々はこの日本の邪教に立ち向かう。我らはこの世の他の者とは全く違う存在である。我らこそが本当の幸せを得て正しく生きることができる」そして若手の後継説教師はパスターたちの行動主義的な話し方をふるって真似していた。

私の信仰は危機状態に陥った。教会をやめたくなかったが、それにもかかわらず、身をもぎ離さざるを得なかった。ふたたび信仰放浪者になる危険を冒しても。私は快楽的な自己破壊を持って、アウトサイダーの道を選んだ。そのときの拒絶精神に勇気を与えてくれたのはトコトロニックの最新曲でもあった・・・

疑問に思えば、疑問と不可解に賛成
牙をむくときの内なる悔恨に賛成
疑問に思えば、会場の皆の前で頽れることに賛成
わが人生が不調、わが存在がスキャンダルとなる

そして、私は今もこのJLHを去ったことを後悔しない。神さまは他の計画を持っていたことが、後に知った。

ジーザスライフハウスをいかに評価すべきかが未だにはっきり分からない。この世に完璧な教会というものは当然存在しない。そしてそこにいる優秀な人物にも不公平だからJLHを非難するつもりではない。私が受けた印象はきっと不完全である。だが、JLHの成功は、ボーナス分で与えられた神さまの祝福のみならず、幸福の科学みたいな気の狂った集団がこの国の人々を誘導するために用いる戦略と同様なものがもたらしたのだろう。私が批判するのは、反対意見を持つ者に対しての排他性、そして多くのユダヤ・キリスト教の伝統から切り離れた教えの一方性である。またこの反民主的、独善的な要素は危険だ。メンバーが、完全な意思決定の自由を保持することができるか、それとも彼らの人生がだんだん他律的になるのか?教会に反対する家族や友人との縁を切るように誘惑されるか?人生の岐路で疑いが芽吹いたとき、彼らが正直な質問を探ることが許されるのか、それとも常に「聖書がそう言ってるから」ではぐらかされるか。そして、「リーダー」たちの行動をコントロールする規制機関も存在するのか?

集会はこの頃六本木に移動し、名古屋にある別のユース教会を自分の傘下に組入れることに成功した。ここにメガチャーチが発展しつつあることが想像できる。ただし、高齢化する老人支配国日本においてユース・チャーチのコンセプトだけで広くキリスト教を普及するには、それ以上の戦略が必要となるだろう。
もしも日本にいつか大量覚醒(リバイバル)が起こるとすると、ジーザスライフハウスがその最前線に立つに違いない。一方、強硬派リーダシップ下でキリスト教の生き方の多様性と批判的思考法を拒否するカルト集団として急進的な発展を遂げる可能性も考えられる。どうあろうとも、ジーザスライフハウスはこの町、この国に影響を与えかけている。私はこの発展を、又してもアンビバレンスをもって見つめる。

 

注釈1) 上記は2011年2月24日にこのブログに公開したドイツ語・英語記事の翻訳文です。翻訳にご協力してくれた皆さんに感謝します。
注釈2) ブログに載せてから東京ジーザスライフハウスは原宿に移動しました。

18 thoughts on “疑問に思えば、疑問に賛成 — ジーザスライフハウスの光と霧

  1. 私はあなたに出会ったかもしれない。
    私もここに少ない時間だが確かに居た。
    みんな一所懸命に友人を待つように
    表階段の下で集まっていた。
    はじめての人が来ると、孤立しないように
    声をかけてくれる。これは他の教会にはない
    めずらしい光景だ。
    そして薄暗い地下?で光が飛び
    手を挙げながら新しい賛美をする。
    とても心地良い音楽でもある。若者には・・・。
    眠くならない即興性のあるメッセージには
    胸がワクワクしていた。
    でも、どこか窮屈で、ロボットのような
    上からの命令に動かされてる感じがした。
    たとえ、聖書に書いてあるとしても
    聖書のとらえ方や神学や人の性格など考慮したら
    聖書なんて1つの基準になるわけがないと思う。
    私は様々な意見を言える会衆政治の中で育ったクリスチャン
    だから、その辺が異様に見えた。
    その他にも、暗闇の中で最初から最後まで
    何回も何回も手を挙げさせる。私は当局が
    注意してる催眠商法に似たものと見ている。
    だから最後にイエス様を信じたい人はと
    リーダーが言ったとき、多くの人は手を
    気軽に上げるだろう。そこが閉ざされた
    入り口だと知らないままに。

  2. >しかし聖書の神の権威を少しでも疑うことは微塵もなかった。
    個人的には、メガチャーチを中心とする教会成長ムーブメントは好きではありません。
    福音派の目的優先礼拝も抵抗があります。メインラインを明確に支持しているという訳でもないのですが。

    ジーザスライフハウスの現代礼拝は、表現者として自分を活かしているように見えますが、
    その裏や教会に洗脳的に縛られてしまっては、新しいどころか中世並みに旧い表現方法ですね。
    私自身、信仰の果ての失望で排除されるのであれば、賛美も教会も不要であると考えます。
    失望した後に、受け皿となりうる場所を最終的に求めている訳であり、
    無条件に服従できる教理は存在しないと考えています。
    「神を信ずる」ということは、(牧師も信徒も)自問自答であると認識していますので、その立場から煽動・宣伝に熱心な成長路線は好きではありません。

  3. 私は、JLHに出張ついでに訪れた(水曜)ことのある者です。たまたま御茶ノ水クリスチャンセンターに初めて訪れたときに、地下で何かをしていると看板で気付き、1時間迷ったすえに参加しました。たぶん受けた印象などはあなたと同じだと思います。その後はJLHメディアのメッセージ試聴のみですがかかわっています。
    実は、日本の奈良県生駒市という所に、インターナショナルチャペルミニストリーズ(別 フレンドリーシップチャペル:FC)というキリスト教団体があります。京都には教会と学校(大学院まで)を持ち全国の不登校児や帰国子女が通っているそうです。私は昔FCに行っていましたが牧師と意見が合わず現教会(生駒めぐみ教会:同盟教団)に移りました。
    FCはJLHに似た教会でした。若者をターゲットにしたプログラム。音楽中心でアメリカのワーシップソングやヒルソング系をバンドで賛美する。バイリンガルで実践的で時事的な話題に始まるメッセージ。グループや排他性など、今でも家族と離別し苦しんでいる人達、カリスマ的というか異端的であるが自分たちが正当である面原点的だと主張する。もう30年ぐらい前から存在するグループです。JLHの集会に入った瞬間に「懐かしい」と全身に電気が走ったほどです。
    JLHやFCは登竜門的存在意義はあるのだと思います。私自身もああいったプログラムは好きです。しかし本当に神と向き合えるのかは疑問です。そして家族とは向き合えなくなるのでしょう。悲しいものです。
    また東京に出張があるのですが、今回はJLHどうしようか考えています。

  4. 教会は人の集まり、人がいれば必ずコミニュケーション
    しなくてはならないし。教会は別に聖人、賢者の集まりではないので
    誤解も生じる事があるし、衝突もあるでしょう。

    私は海外を含めいくつかの教会に行ったことがあります、
    ジーザスライフハウスはその中でも一番人生に変化をもたらした教会であり、
    チャレンジも与えらた教会でもあります。

    別に議論したいわけではなく、
    貴方がこの教会を離れる前に、この教会に来てから神様がしてくれた事を
    シェアしたかったです。

    God is good all the time,
    in good time and in difficult time
    God bless,

    M.L

  5. 彼らは聖書の言葉を欲しい部分だけ抜き取って繋ぎ合わせます。
    そしてそれを神の言葉だというのだから面白い。

    献金の意味や根拠をマラキ書に頼るくせにキリストの十字架と蘇りが救いと愛であると説く彼らの無知にはあきれます。
    十字架によって生贄が完了していなければそこには救いが掛からないのに。
    ジーザスライフハウスは統一教会やエホバの証人と同様の異端であると理解して問題ありません。

  6. 【 私が通う教会の条件 】

    1.献身(献金・奉仕)を煽動しないこと
    2.音楽伝道に熱心過ぎず、イベント中心の教会でないこと

    3.経費節約に徹しており派手さを戒めていること(配布物・宣伝)

    4.教会メンバーの精神的なサポートが充実している(特に貧困・病気・失業・人生の問題)

    5.聖書の解釈を熱心に行い、聖職者自ら研鑽に努めていること

    祈りを重視しているのは省きました。聖堂・礼拝の規模といった側面に熱心すぎることなく、参加者の霊的な精神面を重視してしっかり導いてくれる教会で、かつ1・2・3の項目を満たして負担を軽減してくれる地道なやり方をしている所が私の希望する教会です。
    大宣教に熱心すぎる教会は最終的にはついていけなくなるので希望していません。神への服従・献身を強調しすぎる教会も苦手です。私は5の聖書解釈を教会内で行いたいので、聖職者は勉強熱心なタイプが良いなと思います。

    ジーザスライフハウスは、上記の項目において、総て私の希望とは逆であると感じています。

  7. 俺はねえこういうのもキリスト教っていうのかな。あぶなくないか。って思ってしまうね。カルトじゃない。あきらかに。ネズミ公と一緒じゃない?悪魔だの、ヤバくないかい?気持ち悪いテンションっていうしまあ洗脳でペテン師みたいなもんって気するでしょう。まともな人なら。あんまり健康的な気がしない。必ず良いものは残り悪いものは淘汰されるよ。危険な新手宗教としか見えない。
    悲しくなるね。こういう団体は。

  8. 権威に疑問を投げかける素晴らしい記事ありがとうございます。
    福音派のクリスチャンで、JLHにしばらく通っていました。

    最初は、成長している教会を学んでみたいというような動機だったと思います。
    けれど、いくら頑張っても教会生活に喜びと平安がなく、疑問を感じて調べ始め、その原因が繁栄の神学に傾いたメッセージとカルト的な牧会にあるのではないかという結論に至りました。同様の疑問を感じる方のために、考えをシェアさせてください。

    繁栄の神学については次のような記事が参考になると思います。
    http://maranatha.exblog.jp/20657207
    http://maranatha.exblog.jp/18088354
    http://blog.livedoor.jp/gregoryofnyssa/archives/51636145.html

    牧会については、ネットで調べた限りだと、カルト化が認められた東京キリストの教会(現在は過ちを認めている)の牧会や弟子訓練に似たところがあるようです。私の経験では、批判的発言の抑制、個性の統一化、リーダーの権威を高める発言、教会から離れることを暗に脅すメッセージ、リーダーへの完全服従が要求されること、自分たちが聖書に忠実であると公言していること、ポジティブな発言・笑顔・喜びの強制などが見られました。

    また、親団体であるHillsongにも海外には危うさを指摘する声が多く挙がっています。

    ・ 上層部への疑問を寄せ付けない階層構造と、原理主義 http://www.smh.com.au/news/national/hillsong–the-church-with-no-answers/2007/08/03/1185648145760.html?page=fullpage
    ・ 税金のかからない巨額の収入と、牧師の派手な生活 http://www.dailytelegraph.com.au/taxpayers-support-lavish-hillsong-lifestyle/story-e6frewt0-1225896526584
    ・ 聖書箇所の恣意的な書き換え http://onceuponacross.blogspot.jp/2010/01/false-gospel-of-hillsong-part-1-houston.html

    疑問を感じている人は心を病む前に自衛し、(他のメンバーになんと言われても)距離を置くべきだと思います。個人的に判断する上で私には以下のサイトが参考になりました。

    http://maranatha.exblog.jp
    http://arinopapa.arinomamachurch.com
    また、「カルト 教会」で検索するとカルト化した教会の特徴が見えてくると思います。

    JLHでキリスト教について興味を持ったけれど疑問も感じているという方は、まずは、歴史のある教団に所属している教会に行き、キリスト教の基礎を学ぶことをおすすめしたいです。イエスの愛と恵みは教会の成長や人生の成功だけに現れるものではなく、もっと深いものであることを知ってもらいたいです。

    離れようとする人に対して、「疑わずに忠実に仕えれば、チャーチでも祝福されるよ」のように言われることがありますが、これは「信仰が足りないから祝福がないんだ」と言っているのと同様で、全く福音的ではないと思います。祝福は神様の恵みによって一方的に与えられるもので、だからクリスチャンは喜びにあふれているんです。良い行いによって救いを勝ち取るのではなく、救われたから良い人間として成長するんです。チャーチを離れたら神様の祝福からあぶれるなんてことは絶対にありません。

    私も、「成長・豊かな人生=健康な教会」というロジックにこだわっていた一人ですが、この記事のお陰で、それだけだと多くの新興宗教も変わらないことに気づきました。今は罪からの立ち返りとそれに伴う御霊の実(ガラテヤ5:22)が健康な教会の証だと考えていますし、イエスも実によって預言者を見分けなさいと言っています(マタイ7:15~23)。

    長くなりましたが、疑いを感じる方の判断に役立てば幸いです。

  9. マタイによる福音書 6:33 JLB

    神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。 そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。

    聖書の有名な箇所にこう書いてありますね?議論をするつもりはないけど、筆者は『神の権威を少しも疑う事は微塵もなかった』と言っています。
    でも『私自身の信仰にそこまで重要とは思わない』とか、『時代錯誤』とか、『~を我慢した』とかとか。
    結局それって誰の意見です?

    会社員に例えると『上司の命令は効率的だし、尊敬してます。僕は仕事してます。でも今どき定時に出社する意味もわからないし、残業なんて無駄。そう会議で主張したら咎められたので転職します。』って社員が優良な社員でしょうか?
    それと同じように神様の言葉のここは凄いけど、これは重要じゃないって言う人が、果たして神様を信仰してると言えるのでしょうか?

    疑問が出てきました。

  10. 以前、1年ほど通っていて、ライフグループや自己啓発セミナーのような礼拝メッセージに違和感を感じて離れたひとりです。
    この執筆内容に共感しました。

    教会を離れた後に、友達だと思っていた人たちが、まったく連絡をくれなくなる。去るもの追わず、なのでしょうね。
    引越して東京くる前に行っていたクリスチャンの友人は、いまでもよく連絡を取り合う仲ですし、祈り合う仲です。

    JLHは神の国の拡大のためにすばらしい働きをしていること否定できない事実だと思います。

    ひとつ、カルト教会を調べているという友人から聞いて、どうしても気になってることが調べていたら、このサイトに辿り着きました。
    有給スタッフのお給料が、どれだけの人をチャーチに定着させたかによる出来高制になっているというのは本当なのでしょうか。
    もしそれが事実なら、悲しいです。

  11. ブログ拝見して、気にはなっていたのですがあまり同チャーチの内実を知らなかっただけに、考えさせられました。筆者の方の聖書への疑問は別に普通だし、取り立てて排除の対象にもなるようなことに私には思えませんでした。むしろそういうことを一度も問わずに信仰生活をする方が不思議だし、怖くもあります。
    私自身聖霊派に分類される教会の牧師ですが、若いころから学問と聖霊体験というものをどう調和させるのか、ということで悩みぬいてきました。私の親しくしている聖霊派の先生たちはリベラルな神学校を出て、そういうところを通ってきた方ばかりです。きちんと社会史的研究や聖書批評学を踏まえて聖書を解釈し、しかし、自分の与えられた聖霊の体験も大切にしていく。それは決して不可能な道ではありません。何も学問にひたすら目をつぶって、信じ込まなくても、メンバーに信じ込ませなくてもできることです。
     自分の頭で考えて問い、神に向かって問い、時間をかけて問う。そういう当たり前のことを当たり前にやって、じっくり育つ。育てる。影響力がある教会であるだけに、そういう教会であって欲しかったな、と大変残念に思います。

  12. クリスチャンとして神様を大切に思う気持ちが大切であって通っているところは関係ないと思う。ここでクリスチャンがクリスチャン同士を差別のやり取りしていたら、神様は悲しいと思います。
    大切なのは、心の中だと思います。

  13. 「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは御父から出たもの
    ではなく、この世から出たもの」
    (1ヨハネ2:16)

    このブログを読んで。
    「繁栄の神学」など様々な神学が乱入している
    我らのプロテスタントですが・・・

    カルトやニューエージ思想などは開始から約8年で無くなり
    また新しいムーブメントが現れます。

    わたしは信仰歴22年目ですが、流行りの教会の調査をしてきました。
    戦後、教会にリバイバルがありその後は・・・
    青年会系のものなど・・・エトセトラです。

    若い人生経験の乏しい子供たちにやりがいや存在価値を植え付ける
    やり方は(あなたは神に必要とされている。)等のセールストークは
    伝道集会などに多く利用されています。

    個人的にはロックの音楽での伝道方法は好きではありません!
    教会は静かに神と交わるところと信じていますので、
    爆音を利用して覚醒させることに反対です。

    人は教会に悩みを持ってきます。

    人間関係の苦痛や経済の問題、結婚や離婚問題、進学、就職。
    病気の難病の問題、不貞の問題、など聖書の中での”罪”がほとんどです。

    我らの神、主イエスキリストはこれらの問題を全て受け入れ
    お救いくださり、お癒しになられます。

    信仰の原点の明確化が大切です。

    私の古びた信仰が若い人に伝わることは難しいと思いますが・・・

    時がたって自分の信仰のために多くの兄弟・姉妹を傷付けていたことに
    ならないように祈るばかりです。

    イエス様は・・・
    どこに種を蒔かれたのか?

    信仰を失わないように・・・
    みなさん、共に主にお祈りしてください。

    長々と失礼しました。

  14. 献金について。

    ここの協会の献金は強制ではないものの、毎回サービスの前に”献金しない人はケチだ”、”ケチな人になりたいですか?”と聖書箇所を提示しながら牧師が言う。正直気分が悪くなる。回ってくるバケツに手を入れてお金を入れたふりをする人を見たこともある。

    そして献金の使い道と言えば、
    中心となるメンバーが協会で働く代わりとして、給料、家賃補助そして海外への渡航費が与えられていることも知った。

    海外のライフハウスに派遣になったからと言い、献金で海外で遊んで暮らしてる人間がいる。

    協会では神様のためと言い
    収入の十分の一献金、
    家を(協会)想う献金、
    社会人による献金、などの献金ばかり。

    これらの献金は定期的に行われる。
    ユース(学生)のうちに協会に根付かせ、社会人になったら金を搾り取る作戦が丸見え。

    牧師の家族は結構いい所に住んでるよ。
    家賃や子供の養育費、食費、収入源の出処はもう明確。

    震災や災害のための募金という名目は少なく、それをカバーするためにあるような気がする。そして実際に募金がなされたかも不明。

  15. 以前友人に誘われて、半年に数回ほど同教会に通ったことがありました。優しい人ばかりでした。しかし、音楽に合わせてとび跳ねたり、何度も神様を信じますかと聞かれたり、”信じれば人生は変わる、僕たちは選ばれたんだ”と言った教えに、絶えず何か違和感を感じていました。また、集まりの後は必ずみんなでどこかに食べに行ったり、とにかく筆者の仰るように若者の、都会の、消費文化を感じさせられました。そして一度も彼らの言葉が胸に響いたことはありませんでした。楽しさのためだけに、友達を作るためだけに、この教会に来ているのではないか、と思わされる人もいくらかいました。キリスト教とは何か、と、神、信仰とは何か、と考えさせられました。ちなみに私は何の宗教にも属さない高校生です。

  16. 2008年から1年ほどこの教会に通ってた者です。

    結果的にはここに投稿されている皆さんと同じように違和感を感じて離れました。

    母教会のクリスチャン仲間に紹介された教会だったのでなんの疑いもなく毎週通っていました。

    2008年当時は今ほど勢いはなく(それでも他を圧倒する熱量)、そこまで偏執的にも感じませんでした。

    行かなくなった最大の理由はライフリーダーのお誘いが鬱陶しかったからでした。

    ライフハウスに関わるまでのクリスチャンライフは充実していたので、それに反比例してこの教会での何とも言えない不快な体験は数年尾を引きました。

    もし今この教会に関わっている、離れたい、誘われているという方がいたら、一度じっくりこの教会に時間やお金を費やす価値があるのか考えてほしいです。

    後日談がふたつあります。

    この教会から離れて数年後に怖いもの見たさで一度礼拝に行きました。

    数年ぶりに行った教会は場所は変わり、規模は大きくなり、音楽やメッセージの激しさは増していました。

    ただ肝心のメッセージの内容は空っぽで呆れました。

    お世辞にも頭が良さそうと言えない若者が『クリスチャンライフって最高じゃーーん!!』と吠えているだけでした。

    帰ろうとしたらお決まりの【新しく来た人へ話しかける係】に捕まり数分雑談。

    東京に友達がいない、休みの日をヒマに過ごしているような若い人が彼らに捕まればイチコロだなとつくづく思いました。

    『どこから来たの?』『何歳??』『来週も来れる?』などと満面の笑みで話しかけられて嫌な気分になる人はいないと思います。

    この教会で嫌な思いをして離れて行く人がたくさんいる一方で、規模が大きくなり支持されている現状に寒気がしました。

    この教会のことを忘れかけていた数年後に新しい職場でこの教会に通っている女性と出会いました。

    教会に通っているということなので彼女はクリスチャンのはずですが、彼女の言動はことごとくクリスチャンのそれとは遠く、いっしょに働くのはきつかったです。

    今考えてみれば彼女はクリスチャンではなかったと思います。

    ただあの教会に居場所を見出して必死にしがみついていたのだと思います。

    孤独が蔓延している世の中であの教会がこれほど急成長した理由を垣間見た気がしました。

  17. 2014~2015位に通ってました。いろんな意味で国際的感覚で向き合わないと耐えらん。考えるより感覚。お小遣いやバイト代の1割を献金するなら、フツーにバンドやったり、遊んだりするよりはずーっと為にはなる。社会人だと収入の1割をまるまる渡してここで得るには、社交性が必要と思った。忙しくて、疲れてての合間に通ったら、自分より若いコから浮いて、日本の堅苦しい上下関係と肩こりに耐えながら稼いだ1割を寄付するの繰り返しになりそうだと思って離れた。ただーし、最初の段階で、親しくなったコは、寄付は無理のない範囲(ひとり暮らしなら、家賃とか生活必需品を差し引いた額でいいよ)だったのに、しばらくいたら、ステージからこっちをガン見する家族から、余計な打算をせず1割でないと無意味的なメッセージをいただいたので、その時(気持ち的なものも含め)できる範囲で若いコが楽しめますようにと神様に祈り寄付して終了。
    こっちは正社員になってからの収入からの寄付はゼロで済んだ。長期的にみてないチャーチだなとは思った。
    その前に友達にお願いしていった地方のプロテスタントは、牧師が教会の会計について詳細を報告していた。牧師の息子は医者、学童担当も保育士を目指して大学にいっとたし、日本のマジメな教会はこれがデフォルトらしい。それゆえにフリーターだったワタクシは気持ちをあらためて洗礼しようとしたワケですが、、、のらくらした性格で、牧師夫婦や主要メンバーといわれる人達からも「ユーモアやゆるしも教えのひとつ」「友達として気軽来て」って感じでした。
    洗脳ならもっと逃げられないでしょ、っていうかアンタみたいな人間は最初からそんなとこに近づかないでしょという結論でした。
    神様や神様を信じる人たちに「依存」せず自分から楽しみたいという気持ちがありつづければ、楽しかったで終わり、あるいは続けられるというところでしょうか。

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